2017年7月27日木曜日

槍ヶ岳絶巓の大観(七月二十七日)前編

ただ単に登山の高距を競うならば富士登山が最も適当で最も簡便である。しかしながら、いわゆる登山家の心理はそのように単純なものではない。あくまでも人間の足跡を容れまいとするかのような、峻嶺窮谷の険難を突破する底にある、冒険癖の満足と、景観が雄大でかつ幽玄な、通語を借りていえば、底知れぬ大自然の神秘の懐に侵入する憧憬と、その一を欠いても、索然として登山の感興を促すに足らぬ。この見地からして、高いことは内地第一でも、登攀が容易で景物が単調な富士山などに眼もくれず、わが新しい登山家は、争って日本アルプス山系のどこかに向って礼賛の行脚を試み、そしてそれが時代の流行をなしているのだ。私の今次の槍ヶ岳登山もまた、旅行気分に誘われてのことか否かは、それは私にとって問題でなく、私には別に私一個人の理由がある。何さま富士は名山であり、高く東海の天に抜きん出、その秀麗にして端厳な、天下に比なく、白扇倒にかくとか、八栄の芙蓉何んとかと言うも、賛辞が足らないざるを憾ましむれど、その孤峰辣然として、独り尊きを専らにするところが、どうも私の気に適わない。杜少陵望岳の詩詞に曰く、「 西岳崚嶒竦えて尊に處り、諸峰羅立して児孫に似たり」と。わが富士はあたかもそれだ。あまりに周囲からずば抜けて釣合いが取れない。例えば英雄とか偉人とか称する者が、一世を支配し指導する底の勢が富士にある。私はそれが嫌いだ。英雄崇拝は過去の思想だ。吾人はお互いに、それぞれ皆偉大な凡人となって、相携えて共存共栄の営みに力み、英雄偉人などという出過ぎ者のお世話にならないようにならなければ、理想の社会とはいえない。どう見ても富士は、専制的、独尊的、圧倒的威力の象徴である。目出度づく目の電気といい、八面玲瓏の山容といい、わが愛孫の万歳をよするに最もふさわしい霊峰として、何故に私が富士を選ばなかったかの理由はここにある。そこへ行くと、日本フルプスは槍ヶ岳を中心として理想的に展開する。槍ヶ岳が、中で一番に高いといったからとて、何程の差があるわけではなく、わずかに相に一頭を譲る峻嶺巨壁が、遠く近く背を起こして、参々起伏の妙を極め、渾然たる一大景観を展べ、槍も、穂高も、立山も、乃至どれどれも、独りその優越を専らに為る者がない。言うなれば、共存共栄の社会生活原理を図解するようなものだ。私はそこに言い知らぬ憧憬をもつのである。わが愛孫の未来を繋ぐ目に見えぬ維に牽かれて、私はここ槍ヶ岳の絶巓へ登り詰めて来たのである。理窟は抜きにして、さて雄大な眺めだ。見渡す限り、嶺という嶺の襞には、積雪が白く輝く。