二十六日午前六時三十分。印象深い上高地に名残りを告げ、いよいよ槍ヶ岳へ向って出発する。案内者は高山菊一という。中房から来合した者だが、あいにく上髙地側の案内者は出払って一人も居合わせず、この者案内に委しいとのことて誘導を頼むことにした。外に人夫六人。半分は木挽きを駆り集めて頭数を揃えたほど、上高地は登山客で賑わい、人夫の払底を告げている。
一昨日南下した徳本からの来路を、今日は北へ踏み復へして行く。河童橋を渡るまで、いやでも見上げるのは六百山だ。無愛嬌にそそりたった姿から、かちかちの大赭頭の具合まで、何となく残忍な険相を顕している。秀麗な霞沢山と並んで、ことにそういう感じのするのか知らんが、その沢の流れは水の色がくすんで見え、飲めば腹痛を起すということで、人夫もこれを飲まず、この山深く入って猟をすれば、何事かケチがつくということで、嘉門治爺でも大抵なら敬遠したという話。何か知らん伝説の魔所めいた風貌の不気味な山だ。
牛小屋の所から徳本の峠路を右方に見捨て、梓川に沿って北に遡る。桂、クヌギ、ナラ等の潤葉樹枝を交え、樹幹のひょろひょろと高く、皮はだの白く滑かな白樺はさらりとアクぬけして金髪の少女が羊を追う北欧の情景を想わしめる。なるほど、よく見れば徳本向うのよりは、樹皮の色が白いようだ。川楊は実によく繁茂している。ぐっと突張り出した巨枝の勢い、密に茂り合う柿の生気、活力その者の象徴である。以前は、上高地温泉附近の川原に、ことに巨大なカワヤナギが多かったそうだが、算盤づくで伐り流され、今は往時の盛容なしと。聞くだに惜しい気がする。
密に過ぎず、疎に失せず、木下闇の陰欝に閉じられるほどではないが、左は穂高、右は蝶が岳の尾根続きの深い谷間。行けども行けども青葉蔭の何所まで続くか。甲府の若尾家が、日の出の威勢で成り出した当時、甲州一と呼ばれた某山持ちが、逸平さんが、ふんとにえらく溜め込んだそうだで、なんなら逸平さんちの有り金財産残らず一銭銅貨に切り換えて、俺がの山の立木一本ごと、その一銭銅貨一枚宛、押しつ付けて見せてもれえていもんだが、とてもいけめえずら、と、うそぶいたものだという。もっとも馬鞭ほどの小柴も一本の数に入れての勘定だそうだが、ここのもその割合いで、一本一銭に踏んでも大したものだ。いわんや梓川の水利という無償の宝は、この山中の森林が滅びない限り永遠に流れて尽きることがない。一昨二十四日、牛小屋附近の箇所で測って見た水量は深さ四寸八分にて二百六十三個はあった。また二十日には、六寸にて三百二十七個あったそうだ。上流わずか五里程の流域を潤す水源林が、平日これだけの資源を包藏しているのだ。今我らは、宝の山を讃美しつ、さて退屈な森林の路を急いでいる。沿岸一帯ほとんど平地を行くので、峻坂上下の苦痛はないが、路を埋める雑草雑木の藪こぎりは、かなり辛気くさい骨折りだ。十一時半頃、二の保谷着。梓川本流と大天井岳に水源を発する二つの保谷川との合流地点である。上高地より約三里半。