二十四日、午前六時二十分。島々を発ち上高地に向う。道を島々谷川に沿って上る。いよいよ登山路の振り出しである。
東京を踏み出して名古屋で草鞋を履きしめてから、自動車の中でも、汽車の中でも、馬車の中でも、旅舎の夜具の中でも、絶えず雲表の一万尺を心頭に打ち出して、それからそれへと瓢々と浮遊する気分がどのようなものか知らずに、凡骨を脱離したもののように一種の誇りを味わって来たものだが、脚一歩峡谷の土を踏むと、突然ただの人間となり、五尺を二歩の前途遠く、山外の山は見当もつかなくなった。
今日は同行一人を増して六人。人夫を加えて十人からの足だて。ごうごうたる水の音と争って、話声が尻高にはずんで行く。私も、声だけはまずもって山男化したものだ。あるいは川の右岸に、あるいは左岸に、山脚を削って小林区署経営の林道が十二ポンドの少軌道を敷き、一路、帯の如く北に通じている。枕木と枕木との間隔が、二歩に狭く一歩に広く、とかく歩調がちぐはぐになりがちだが、不満を言えた義理ではない。ほとんど平地同様で登るともなく、登り行く楽な道だ。島々口から約十町程は、左岸の山側の傾斜はやや緩く、ところどころに見上げる高さまで隙間もなく山桑が栽培されている。緩いと言っても四十度左右の急斜面。身体だけの上下さえ大抵な事ではあるまいに、この所に若干の桑葉を得ようとして、そして若干の繭糸を市に出そうとするために、換言すれば。金に追われ、糧に追われて、仙人になることなどできない山人が、足の立つ限り、手のとどく限り、榛莾を切り開いて植えつけた桑の一本一本は、さながらに人間苦の記念樹であるまいか。
進むに従って谷底狭く、ものの十間もあるところは広い方で、林道の一二間と渓流の三五間をゆるやかに開いて、山壁の屏風が蜿蜒と両岸に連なり、よそでなら一廉の名山高嶽と村長されるべき標高五六千尺以上の打仰ぐ山という山が無能に峰頭を出没させ、ここでは通路の立ち番をしている。狭く東西を割り、紆余として南北に棚が曳ける頭上の天空高く、はや赤々と盛夏の日影を渡せども、峡中はまだ爽涼の朝気である。深緑露を滴らし、そこはかとなく土の香が漂う。一行は元気溌々として、やがて二の股に着いた。島々からの行程は二里である。