2017年7月23日日曜日

島々谷のロマンスと今様(七月二十三日)

 向かって右に梓川が湾形をなし、島々の谷川を南下して合流する三角州に枕み、ゆるやかに拓かれた緩斜面に島々の部落は一廊を成している。海抜二千四百尺。翠峯風渡れども一塵動かず、奔端山脚を洗って波弥よ白い。ところどころの寄州には、老怪にして奔放なる楊柳が、巨幹ふた抱え余りにもなるが、浮島をなして茂っている。山村にして水村。盛夏の陽光も自ずから和らぎを持つ塵外の境である。若い人達は威勢よく水浴にと出かけ、浅瀬の石につかまってじゃぶじゃぶやったものだ。
 上高地を起点として槍ヶ岳山系に向かう松本方面からの登山者は皆この地を経由するので、島々の名は、逐年都会人の間で親しみを加えて来た。清水屋は当所の古い旅人宿で、また上高地温泉の経営者であるから、親切に登山客の便宜を図っている。
 清水屋の前を一息のぼり、右に山角をめぐって梓川の岸頭に下れば対岸橋場に渡す一危橋がある。かのゆかしいロマンスをもつ雑炊橋がすなわちこれだ。激流さくなだりに渦巻き落し、いたいたしく山肌を削り取って物凄い竜宮淵を湛え、曲潟急灘をなすところ、まぶしく俯瞰久しきに堪えない。橋の長さは二十間あまり。懸崖の桂の古木、かさに雑木の梢頭を圧し、粗枝は真っ直ぐ伸びて橋欄をかすめ、殺到一下の水に臨み、万千の青葉をサヤサヤと山風に揺り合わせている。
昔、橋場におせつという女がいて、島々に清兵衛という男がいた。若い二人は、川越しに呼び交わしていつしか相愛の仲になったが、いかんせん恋を渡す架け橋がなかった。そのため、日暮に岸頭に相い見て綿綿の情を語り合い、互いに倹約して金をつくり、ここに橋を架け渡し、手をとって会う楽しい日を約束した。それ以来、二人は真っ黒になって働き、来る日も来る年も雑炊をすすって五文十文と蓄えた金銭で、いく年かの後、ようやく橋材を買い調え、両岸から継ぎ継ぎに跳ね木を積んで形ばかりの橋を架け渡し、夢寝の切情を達したという。二人の苦労を名にして、恋の純真を不滅にしたのがこの雑炊橋の濫觴であるそうだ。今は雑食橋と書くが、やはり雑炊の方が温かい情味を含んでいる。按ずるに、おせつは美人でもなく清兵衛は存外の醜男だったかも知れないが、二人の恋は永久に美しい。川霧おぼろの夕、魔の淵を中に、女は東に男は西に、いたわれた脚を投げ出して、この所からその所から、刎木をこう架けあってああ架けあって、まだ何本稼ぐだよ、清さ退屈けえ、汝がよおんじょこくでねえと、日々の苦労をいそいそ楽しんだ二人の姿はただ美しく、彷彿としてそこに立つ。恋愛の神聖自由を理屈でいく現代の青年男女は、一度この竜宮淵の洗礼を受けたらどうだろうか。
 ここから飛騨街道を稲核まで、私は角田君を携えて梓川の水流を視察して島々へ帰った。途次、明が平の路傍に、かの有名なヘットナー石があった。明白に氷河の痕跡を留めている貴重な遺物であるそうだが、専門的感興はわたしたちが与るところではなく、ただ珍しいと見るばかりだ。
 それよりも、生きた材料に角田君の慧眼が奇しく光った。この山間の僻村まで、賛沢な都会の風が吹き通して来て、島々は無論のこと、稲核あたりの若い者さえビールをあおり、サイダーをガブ飲みしてケロリとしている。しかし、苦い淡白なビールより陶酔を買うには甘い濃厚な村酒があり、渇きを癒すには、清冽比類なき岩切る水が滾々と筧を通っているではないか。紅塵熱風裏に噞喁(けんぐう)して生温かい水道の水に飽き足らず、ゆるやかにビールやサイダーに一抹の涼を求めている都会人の惨めさを山の人たちがどうして真似る必要があるのか。純朴剛健の気風がこうして漸次侵食され、生半可な薄っぺらな人間が、山から野から迷い出すことになるのだと、大いに慷慨したものだ。左様だとも。下らない贅沢な真似は、都と田舎を通じてよろしくない。時局以来、島々谷の人達も、相当以上の収入があり、以前は割の悪い仕事とされた炭焼きや山伐りが、また馬鹿なような景気。特に大阪の久原君が、乗鞍山麗の大森林を手に入れて伐採に着手してからというもの、男はいくらでもその方に吸収され、山案内などの仕事は無くなり、清水屋の若い者は、遠い能登くんだりから上げて来て、それも山伐りに引かれる仕末。しぜん島々の山人夫賃が、中房、大町等より割高になるという。土地の好景気は結構として、さてその影響はどうであるか。ビールやサイダーなど何んでもない。贅沢どころか論外な堕落生活。ここの峡谷一帯の曖昧茶屋は、とても客を盛り切れないほどの繁盛振り。土相当の衣被ぎに、三十金を投げ出して得々たるもありとか。さらにまた、留守を預かる女房達はどうだ。絹布の半天をビラつかすなどは、女子の情で無理もないが、亭主の稼ぎを燗酒にして日中から飲み脹れ、ボコボコの三味線を叩いて、なにがサノサだ。とかく醜声がもれ勝つとのこと。金を持たせるのが善いのか、貧乏でいるのが悪いのか、こうなれば問題である。
 会社の土木技師村井哲雄君が、上高地からやって来た。かねて上高地付近の梓川の水量の調査に出張していたのだが、その報告を兼ねて登山同行の出迎えに下って来ったのだ。
 明日はいよいよ山入りだ。島々谷の夜は涼しく晴れた。