2017年7月30日日曜日

伊香保の昼寝(七月三十日)

 三十日、今日はいよいよ山の別れ。言い知れぬ愛惜を後に留めて、中房を立つ。右朋山の西麓を南して東に向い、中房川沿岸の風光を追って、下ること三里ばかり、平野前に展く所、有朋村宮城というところを過ぎる。有朋神社に詣で、神職の方の懇切な歓待を享け、社務所で休憩して少時涼を納れた。爽涼の山を出て来たばかりを、平野の真夏の気にあてられては、一時に息詰る苦みである。幸い社務所の前庭の池に瀧が懸っていて、さもさも水音が涼しいので、請いて瀧に打たれ、緋鯉真鯉が清冽の水を切って右往左往する麗わしさを見ては、今、ここへ、可愛い孫児を抱いて来て見せてやったらと、お爺いさん現なしだ。厚く謝意を表して辞去す。
ここより道を有朋駅に取り、十二時半、信濃軽鉄をキャッチして松木へ向う。道行く老若、車中の男女。人皆が見識り越しのような気のする人懐かしさだ。けれどもこの辺の人達は、異装の登山客など、あまり眼に馴れ過ぎて、一向に気に留めぬ風なのが、我ら飽かず物足らぬ心地がした。
 松本駅にて一行と別れる。角田、佐々木、天野、村井の諸君は木曽路を後藤君は中央線で、私は一人長野から碓氷を経由して、三十一日、伊香保へ着いた。
 木暮旅館の三日というもの、香山の風光に親しむでもなく、疲労のために、只昏頓として、昼も昼寝だ。眼に浮ぶものは、一万尺を吹きつ掠むる雲の徂徠。そと耳朶をこそぐるのは、可愛い声の「おじいちゃん」。そうそう、西園寺公爵へ竹杖のお礼を。