今日の難関である徳本峠は、あともう一里。ここからが本物の爪先登りだ。山の容も、谷の懐も、下とは急に様子が変わり、じめじめした沢地を流れ下る渓川の水量も減り、底も浅く、山道がやや奥深く登りに入るのがわかる。抱え太の川柳やら何やらが.そこにここに打ち倒れている。風折れの枯枝が路上にも散り布き、先頭の人夫達は力杖の端で払いのけつつ進む。今日の賃銭支払い人である我ら一行のために特にする務めというわけではなく、お互いに邪魔だからいつもこうして上下する仕癖だという。癖もこういう風なのは結構だ。日本の交通道徳は、日本アルプスの人夫諸君によって美しく代表されている。電車の中まで大きな荷物を持ち込む仕癖の都会人は顔色なしだ。右方の嶺に、独活荒らしという砂な名称の一域がある。もちろん地図上の固有名ではなく、山男達の間で古くから呼びならわされた自由称呼である。そこは一面に独活の山で、熊が堀り荒らして食い散らすからその称で、どうも不細工なところが郷土的でおもしろい。ここでは、渓流は一間ばかりのただの川だ。大木は桂、トチが多く、たくましく張り出した枝から何やらつる草が垂れ下がる。摘み切らずにそっとしておけ。林相はだんだん変わっていく。黒味まさりに見えてくるのは、徐々に広葉樹が減っていくしるしだ。山肌が痛々しく削げ落ち、砕岩がなだれをつくあたり、水源は一折して左方の山壁をはって登っていく。ここで南谷川と別れる。少しして徳本の麓だ。木の皮が欠け樋を伝う龍の口の清水は、はやもう人夫達の蛇の口で賑う。
有名な二十八曲がりの難所にかかる。くの字形にうねりうねって登っで行く困った道だ。この辺はすべて針葉樹の密林。いわゆる千古斧を入れざるの部に入るのだが、打ち見たところ、千年の老大樹はまず無い。何百年位のならあるかそれも分からないが、風損木に若木が無く、ふた抱え以上もはかる老樹がむざむざと残骸を横たえている状態を見れば、千古の密林に千年の樹が無く、代々相続の理がなるほどと頷かれる。樹種は、檜は案外少なく、唐檜、白檜、栂、モミ等の他に、広葉樹としては、一人白樺が異彩を放つ。ひょろひょろと細高く伸びているようだが、立ち寄って見ればかなりの太さだ。一人夫が言うには、徳本のこちらに白カンバはありません。これは皆赤カンバです。ご覧なさい、皮肌に少々赤みを持っていますから。越して梓川の方へ下れば白カンバばかりです。と。果たしてカンバに赤白の別があるのか否か私は知らないが、思うに人夫の赤白カンバ説は、世のキツネ、ケツネの異同弁と同趣旨らしい。
道が急峻になるにつれて、腰は前かがみとなり、閑話の応酬も途切れがちに、流汗は全身を洗うばかり、だんだんと気息がはずんで来て、はっはっと喘いでは一杖立てる。三十間が、二十間、十間と、杖立丁場が短くなるほど歩調がたよりなくなってくる。私は無論弱ったが、角田君も弱っている。程度の甲乙如何は、それは私からは少々申しにくい。後藤君は、本来柔弱であるべきはずのお医者さんにしては比較的健脚家である。小柄で痩せ気味で、一行中の最少重量者であることを条件としてだ。山岳通の三人組は、人並以下に汗を流し、脚にも腰にもしゃくしゃくの余裕を見せる。さて、人夫諸君だが、怒られては困るが、小声で言ってみれば、まず牛のようなものだ。各自相応の荷物を背負って、双腕を胸の上で組み締め、時々肩を揺り合わせて、どっしりどっしりと平均的な歩調をとって登っている。道のくの字形がだんだんと小さくなり、傾斜が強くなり、よほど登り詰めた様子で、もうすぐだもうすぐだと何度も気勢づけられたか覚えていないが、位置の具合で仰いでも仰いでも頂点は見えない。瞰下すれば、さて一曲がりはすぐ眼の下だ。登山第一日の御馳走としては少々盛りが多過ぎ、うんざり食傷気味で、そら来た所は頂上の直下。これはまた真正面から額上をおしつける無類の俊坂。ものの一町程度は滑ったり、這わされたり。