2017年7月24日月曜日

穂高山に初の見参(七月二十四日)

 「やあ」と驚嘆の一声。穂高山に初見参の、溜め切れぬ歓喜が思わず口をついて出た挨拶だ。南画のような梓川の溪流を中にし、徳本峠七千余尺の絶嶺に立って豪宕無比、一万余尺地表を割ってそそり立つ穂高山の雄姿を仰ぐ。なんという天下の壮観か。
正面は、明神穂高の10,197尺、右は奥穂高の10,240尺、続いて北穂高の10,000尺、左は前穂高の9.596尺。奥穂高が最も高いが、視線の上には明神穂高越しとして一頭抜きん出て景観の中心をなし、奥穂高は肩越しの遠見を張り、北穂高の末は煙霞を込め、前穂高は袖屏風を左に引き回すという取り合いで、すべてが一画図に入り、くっきりと浮き出した空線は、見る限り大歯のようで、乱立した尖峰の連続である。全山これ一盤底の巨大な花崗岩塊、万劫の刀痕はもの凄く、怪奇の状貌を刻み、すきりすきりと皮肉を削ぎ落として、痛烈に山稜を骨立たしている。一言で言えば、無骨無類の真黒な岩山だが、自然には冗な細工はなく、高山植物の群落と伏松とが、ほどほどに青緑の彩色を施し、くぼみのところどころに残雪を白く布き、日光の反射がきらきらと揺らぐ中に、薄瑠璃色の陽炎が明滅するなど、言い知れぬ美観である。中腹以下は密生した針葉樹林、落葉松の浅緑が鮮かに濃緑の中に浮かぶ。下って一面の雑木林、裳裾を渓谷の盆地に曳き、梓川原の行く水の模様をのべ出、何と形容する言葉もない。
 耶馬渓紀行の大文章を書いた山陽も概然として筆を投げたというが、それは投げたのが当然。いかに山陽の霊筆でも自然の大意匠を如実に伝えられるものではない。ただ神だけが会し得ることだ。いわゆる客観描写は一寸見やすいようだが、骨折れば骨折るほど景物を解剖的説明の骨がら肉びらにしてしまう弊があり、それらの物のまとわりをつげて血行をよくするのが、すなわち筆者の主観である。困ったことに私はその方の持ち合いが貧弱で、穂高というずば抜けた難物に出会っては、この上はただもう大自然の厳粛な哲学として驚嘆する他はない