疲れ切って、ぐだりとする頃には、ちょんぼりと慰め顔の花草が待ち受けている。割りとったような岩壁の隈のところどころ、一杯の土もなさそうな襞の間に、雪の絶え間を見出して友染の産着に包まれた捨子のように痛々しくそこに笑いかけている。何んという純真の花容だ。何んという生命の偉力だろう。この可憐な花に会う毎に、我らは甦ったような清新な気に触れつつ、おぼつかない一歩一歩を続けるのだ。上へ上へと。
なんの、婦人でも登れば登る。既に我らよりも以前に、大阪毎日新聞社長木山氏の令嬢は、妙齢十七歳とか十八歳とかで、衣袂翻々と胡蝶のように軽快な登山振りを見せ、東京人では東海銀行の菊池晋二氏の夫人が郎君と相携えて睦じく登山したということだ。最も奇抜なのは、久米民之助氏の登山振りだろという評判である。徳本峠の登り路からこなた、腰に八本の網を結び着け、八人の人夫に一本ずつその綱を曳かせ、えっさえっさと威勢よく焼岳へも登り、樽へも無事に登ったという。有名な肥大漢で、何でも大掛かりな事の好きな久米氏としては、なにさまやりそうな事である。先年、氏の庭園に据えつけた石灯籠の笠は、日本一大きな物だそうで、その車を牡牛十頭ばかりに曳かせ、渋谷道玄坂下から駒場通りの一里足らずだけでさえ、四五日ついやしたなどは、下らない事としても八人曳槍ヶ岳登山は、蓋し、久米氏一の大傑作。氏以前にその人なく、後世またおそらく真似する者はあるまい。
我らはなかなか一本立ちの登山者として、見る人後に連なり、八人引きでないので名を成すのに足りないのは残念である。佐々木天野君などの山岳通は曰く、穂高の縦走、剣岳の登攀、一度胆玉のつり筋を思うさま緊張させてみてからでなければ、いまだもって日本アルプスの険難を談ずるに足らず、まだまだ槍の登攀などは、足ならしの前芸だと。向う意気の強いことだ。村井君は、もちろんといった顔つきである。角田君と面して私は、何と言われても一言もなし。前芸だけが精一杯の奮発だ。所属曖昧の後藤君も、今日はかなり参ったらしく、お互いさまに杖をとめる。通語で一本立てるという。何百本立てたことやら。恐らくこの方のレコードを破って、どうにかこうにか第二雪渓というところも過ぎ、午前十時、ようやく槍の肩へ取り着いてほっとする。赤沢小屋から槍の頂上までが三時間半程度という。我らは肩まで約四時間半を費やした。
ここは既に奥穂高の頂点と高距を競い、眺望はすこぶる闊大なものだ。さらに直立二百齢尺。すっきりと剣形の尖頭を突き出しているのが、即ち吾が槍の穂である。この行の眼目である日本アルプスの第一峰。雲霧を潜め、風雷をおさめ、今日は珍しく一影の曇りもない。我らはよい機に来会をしたものだ。直下に佇立して仰ぎ一見れば、厲爽の威容さらに厳かに、何かは知らず、崇高なある者と、ぴたりと対向して、岩膚を透かして滲み出る霊活の気を呼吸することは、人その境に臨んで、始めて喫着しうる感興である。もう一息だと、元気な声が先頭を切るが、これが容易な一息でない。プラタナスの葉端を逆立したように、不規則な鋸歯賊のぎざぎざ前を見て、すぱりと空天に切り嵌められた大尖峰のどこに人間の脚の踏み所もなさそうな険壁へ、まずもって草の生えたように取り着いたものだ。石英斑岩とかいうのだそうで、南蝕風餐の畔外貌に似ず、かなり堅緻な岸質の、ざらりと来るおそれなく、それだけは気丈夫だけれど、ちょっと体をひねるにしても、手のひらほどの踊り場があるわけではなく、岩角から岩角へしがみついて這い登る一番のかね合い。先頭のアルピニストは、さすがに軽捷なものだが、後に続く半数は左様に簡単には行かず、いずれもおぼつかない腰つきである。かかる苦心惨憺のさなかに例の後藤君は、何物かを見つけたらしく、左手にしかと岩角を掴み、よかよか飴屋の身振り危うく、おじおじと伸びた右手の指頭を、いろいろとやりくってとうとう足許の岩の襞から、小さな木彫の仏像らしい物を拾い上げたものだ。どこの粗忽者が取り落して行った守本尊か、何の仏像か、それは何でも可。ところは槍ヶ岳の絶巓直下。後藤君が大冒険のやっとこさの天授物。それだけで十分の由緒。得体も伝来も判らんので珍奇なのだ。絶好の記念物として後藤君の書斎裏にさぞ黒ぼけた異彩を放つことだろうよ。
ようやっと頂上だ。足溜りは二坪もあろうか。形ばかりの小祠は、登山者の記念の名刺でいっぱいである。海抜実に一万四百七十尺。飛騨と信濃を吹き別くる腋下の風に嘯いてみると、ばかに気宇が大きくなる。