二十五日、今日は焼岳登りである。午前八時発足。梓川に沿って下り、大正池を右に巡って、中尾峠の麓路に分け入る。目ざす焼岳山塊は、古墳から発掘した壊れ兜の鉢金を見るように、赤褐色に盛り上り、ところどころ欠け落ち、中腹以下、立ち枯れの木立を前景として、中空に白煙を噴きなびかす光景は荒涼たるものだ。道に沿う谷間には巨岩牛の如きより、大小無数のらいらいとした石の流れが、しばらくは上へ上へと続く。噴岩の堆積が時々揺らぎ崩れて、山をふるい、谷をうごかし、ひた押しに押し下げて、ところどころの谷間にこのような石の流れを作るそうだ。徳本の険しい道も難儀は難儀だが、ともかくも修理してあるので、比較的上下に都合は良いが、ここは道というのは名ばかりで、藪を分け、木の根を踏み、岩角を足がかりにして、疎密の林中を出没して登るのである。むかしこの道は、飛騨信濃に通じる本道だったそうだが、山賊の出没が甚しく、被害に堪えず、別に野麦街道を切り開き、ここは廃道になったという。何さま中尾徳本かけて梓川一帯の峡谷は、旅客が一歩を踏み入れたら袋の鼠。山賊の張り場には究竟の要害だ。笹原に腰をおろして瞑目を一番すれば、熊の皮の胴服を着て藤柄巻の山太刀を打ち込んだ髭面の大男が、若い女中を小脇にして、黒木の山塞に急ぐ様など、今見るように彷彿する。上高地より峠の上まで二里ばかりというが、程近しと気を鼓して胸突くばかりの急坂をよじ、枯木立ちの梢を仰ぎ仰ぎ、登り詰めれば、そこは一面の熊笹原。一町ばかりで国境線だ。眼界は一時に開く。標高六九一〇尺。徳本より少しばかり低い。
直下三千尺。降坂左折して、蒲田に通じる谷底の三角地帯は中尾の部落だ。貝殻を撒いたように民家が点々と散在している。蒲田川の水源を跡づけ、眼を上げて真上、笠ヶ岳の丸、五六〇尺を仰ぐ。笠の山形をなだらかに引く線のつり合いといい、肩広く胸厚く張り出した姿に残雪をあしらって、くっきりと青く浮き出した立派な押出しである。笠が岳から見て右一歩前に、錫杖岳(七一三八尺)が控えている等は行き届いたものだが、惜しいことに御器岳が揃わない。向って錫杖の頭から左方は一望の鳥瞰図だ。銀線一条紆余として走るのは高原川の上流である。飛騨山脈の餘派は、重畳洶湧して揉みに揉んで地平線へと急ぐ。はるかに漂う渺の空際を衝く白山の雪景は、全幅を活かす点晴の美観である。
我らが立つ右方にそこかしこの岩の切れ目から、細い数条の白気が噴いている。饅頭笠形の一小隆起は、これが焼岳で、左方の白煙濛々たる鉢金の大焼け山を硫黄岳というのが正確らしく地図面にも左様に記してあるが、一説には、焼岳も硫黄岳も同一山だともいい、通例は焼岳でとおる。西洋人の登山家はヤキダケと言うとか。