これからの降りはまた大変なものだ。すこぶる傾斜の急な所へ、ただ見る磊砢たる岩石の堆積。兢々踏めば、根無し岩のかなりの容積なのも、ぐらりと来る。無数の岩片岩屑は、踵に随ってざらざらと崩れ流れる。中には頭大のも踊り出して落下する。例の魚貫という式で、目刺し鰯のように縦列を組んで下るならば、何人かが、転落岩の的に立って、怪我するに相違ない。互いに足もとを警戒し、出鱈目の電光線上を踏んで、すじりもじり逶って下るのである。今朝の中山越では、岩山を羨んでみたが、こんな岩山は楽ではない。やっとの事で、この難所を下り切った。そこの直面がまた切通しだ。頭上見上げる高さの岩壁。今度はこれを乗り越せという。やむをえん、これで何度目の観念か。景気をつけて言えば、これも突破のうちなのだそうで、もがもがと這い登って突破した。
とかくしてここを通過すれば、途も大いに楽になり、然るベき登山家の態度を回復する。三時半頃、ご来光というものを見る。西に陽光を負い、底には残雪が輝いている、大天井の東面の谷間の中程、ほうと濛気立ち込めた裏に、虹のような彩色三重の覆輪を描き、中心に人体の形をした大黒影が浮き出している。壮麗美観言語に絶し、沢氏のいわゆる七宝の荘厳でもなにね、ブロークン・スペクトルさと言ってしまえばそれまでの事。正体は科学的に分明していても、解らない事にしておく方が、目前尊いような気がする。私も誰れも彼れも腰をひねり、足拍子を踏み、手を挙げたり、頭を曲げたり、一通りやって見たが、彩光中の黒影は微動だにしない。さてはどこから差して来た影入道か。原籍が不明だ。案内者は曰う。ご来光はめったにお立ち成さらねえだで、年中山で暮していてせえ、あんじょうにも拝んだ事のねぇじっさ(老爺)もあるだで、旦那様方、後生がいいだよさ。後生はともかく、現在が大当たりだ。
四時半頃、標高八千五百八十尺の地点に着。丁度附近に堆雪があり、便宜がよいので、尾根の南面にテントを張り、夜の営みに着く。もう風はうすら寒い。偃松を焚いて暖を探る間に、ゆっくりと準備が出来上る。
雪の徂徠音もなく幕舎をかすめる山上でのごちそうだ。今日は格別に旨いとして贅沢なことは言わないが、材科の不準備は、さて情けない。干瓢、凍菎、椎茸、とろ、昆布。これらの品々は、あらかじめ充分に用意する事だ。鰹魚節削りも持参の事。何とか軽便な食卓を工夫して携帯する事。椀などは、在来の木製の方が宜い。少しハイカラな代用の鍍金物などは、汁物を用いるのに、熱くて唇を着けるに困る。
染み染み私の印象を深くしたのは、パイナップルの缶詰だ。一寸酸味を帯びたあの実の甘味ときたら、何人でも悦ぶ。それは宜しいが、ここにその缶詰を一個切ったとする。中味は大かた分配して、一片二片残るとする。仮にそれが私の分け前だとすれば、私がそれを喫べ了るのを、換言すれば、缶がカラになるのをさもさま待ち遠しげに怪しき幾條の視線が缶を焦点として交錯する。そこに無言の争闘があるらしい。いよいよ缶がカラになると、某者の手にかかるか、その時次第で定まりはないが、わずかに缶の底に剰された液汁が、一滴残さず処分されてしまうのである。この幾日間、かつて例外はない。家居すれば相当の紳士方。山の幕舎なればこそ、こういう苦心惨憺の経験も体験することができるのだ。
天は澄んでいるが、十字頃から風が吹き起こり、テントを煽りはためかし、とても暖かい夢は見られない。