降路の余興は雪渓の雪すべりだ。先輩ならびに人夫諸君の懇到な指導により、すつすつと軽快にはいかないまでも、ずるりずるり暗いの程度のところで、試滑走を競い、まずもって大過なきを得た。けれども番外は何にでもあるもの。またしても角田君の噂で相済まないが、どうも角田君の要領が変てこだぞ、と見る間にくるりと方向が変わり、横倒しにすいと投出され、手足をもがき、ごろごろと転げ出したものだ。一行、あっと色を失う。すすっと列を離れた人夫の一人が、力杖一杯に身を乗せて、角田君が転落して行く前面一点を目掛け、疾風を巻いて滑り下り、あわや角田君の体が、雪渓面の割れ目を臨んで、はすみを打って落ち込もうとする間一髪、ぴたりと抱きとめた機敏軽捷な動作。ここらが山人夫の値打ちあるところだ。結果如何と息を殺した一行の間に、気せずして歓声が上がる。お互いに、やれやれ助かったという顔。本当に誰にも怪我があってはならない。雪渓の割れ目の底は恐ろしい岩角を逆立てて待ち受けている。落ち込んだが最後、骨も、肉も堪ったものではない。ここで万一角田君の脛の肉一片でも、痛め失うものなら、誘い出した私の立場として、君の家人にどんな顔も向けようがない。とんだ事になるのであった。
谷に面した雪渓の断崖からは、間断なしに涓滴がしたたり落ちる。穂高に通じる涸沢岳は残雪の美観が尋常ではなく、一部は純然たるカールをなし、雪解け水は、数条の懸水となって岩壁のところどころに垂れかかっている。これらの真澄水が集まり注いで、梓川の源流をなすのだ。槍の肩からかけて、穂高に連なる尾根と言う尾根は、ただこれ削りなせる険岩の連壁。小尖峰の無数の列が、南へ南へと指して北穂高へ続く。横尾からの谷も尾根も、すさびにすさび容易には近づき難い。そしてそれが、穂高の絶険の入口だとは驚かされる。日本アルプス随一の険難、槍から穂高を縦走する者、年に幾人と数えるばかりとは、なにさま無理もない。我等はただ横目で入り口を見て通る。
何んといっても降りは楽なもので、我らはいつか赤沢の腰をまとっている。先輩諸君は、なおもって余裕綽々。尊公等との道連れは、これで丁度よいという風に、いろんな真似をして、道草の食い続けだ。村井君などは、たくましい腕をまくり出して、途上の崖際に突き出ている大石に抱きつき、水路工事の邪魔物でも取り除ける気込でもって、うむうむと真赤になって揺り動かし、とうとう谷間へ落し込み、ぐわらぐわらと山も谷も呑も鳴り響かせ、一声高く痛快。なにが痛快だやら。土木屋さんのする事はやつばり荒っぽい。
その咎めでもあるまいが、なんだか天気模様があやしくなり、ぶーっと生暖かい風が峡間を吹き通し、はらはらと木の葉が降って来た。と、見る見る雲脚は疾風を巻いて頭上一面を覆い、四顧暗澹。例の雷雨だ。一寸の容赦もあらばこそ、雨水の棒束をだっだっと叩きつけ、鳴る。光る。さんざんの暴れかたである。午後一時、ほうぼうの態で、赤沢小屋露営地へ帰着。急いでテントの裏へ潜り込む。防水服も、防水外套も、こうなると当てにならず、何も彼もぐっしょり。テントからも雨滴がぽとぽと漏り込む始末だ。この恐るべき雷雨に備えるためには、テントも、服も、外套も、完全にレーンプールフにする事が必要である。深山幽谷の雷雨と来ては、とても平地の往来などで、想像も及ばぬ猛烈なものだ。
午後四時、雷雨が止んだので、伊孑志でテントを畳、荷物を取りまとめて、出発する。これよりは、さらに常念山脈縦走の道に上るのである。少時間降って、この幾日の朝夕を親しめる梓川に名残を告げ、左に二俣谷を上り、午後六時、標高六千四百〇二尺の地点に着。ここに第二夜の幕営を張る。以前池があったという跡で、沢に沿い、物静かな理想的な露営地である。
そぞろに杜氏の詩句を思い起こす。「鳥鳴いて山更に幽なり」。これは、瀬戸の瀧あたりの情景だ。「伐木丁々山更に幽なり」。これは牧場のある徳本の麓原あたりか。王安石のはかなり山が深い。「一鳥鳴かす山更に幽なり」。あたかもこれだ。二俣谷の夜は音無しに訪れて。