七千三十五尺という徳本峠の絶巓はこの辺での最低の所。延々として蝶ヶ嶽に向かって走る右方の尾根も、左方に近くやや前面に乗り出して、ところ禿の巨大な山頭をもたげている物すさまじい山相の六百山も、一段と高く左方に尾根をひく霞沢山も、くすみ渡る側背面を望むばかりで、ただ眼界の展くところ、ここは穂高の独壇場だ。頂上は撮影に不便で、降り坂を左に旋って右折するところが写真場になっている。位置がやや側面に偏り、真に人を威圧する穂高の正容を正面から写し取ることができないのは残念である。この辺はまたヒカリゴケの名所とあって、山腹が崩れ落ちた小土窟をそこだここだと覗きまわる。難儀といっても下り坂は楽なもので、体重に押され、どんどんと調子づいた足取りは速く、いつのまにか一里ほどを下り、いよいよ梓川の峡谷となる。路傍に牧場の跡がある。近年まで牛を放牧したそうで、虚しい牧舎が雨ざらしになっている。
ここから細い道を横切り、梓川を徒渉し、宮川の池に至り見る。明神の池とも呼ぶ。有名な嘉門治小屋は風雅でも洒落でもない。屋後数十歩で池畔に至る。水面は油のようになめらかで塵もとどめず、そそり立つ穂高山の根を庇護し、茂り重なる木立に囲まれ、日あしもそっと青葉影を忍んで来る幽寂の境地である。点々と棊布する大小の石のただずまいも情趣捨てがたく、水藻を縫って戯れる岩魚の数々を手に取るばかりだ。嘉門治爺さんが乗りならしたという方一間ばかりの釣り筏がわびしく浮いている。釣り日和りには通例一日六貫目の岩魚を釣ったそうで、この池は山男たちの間で「嘉門治爺っさの金箱」と呼ばれている。
牧場跡まで少し戻って樹間に隠顕する水光を追って下だる。路は多少の高下はあるが、河童橋を渡ると、右岸は一路帯のように土は苔を踏むような心地よい足ざわりだ。一日林中の客。やがて秀抜な霞沢山に迎えられて島々の草鞋を上高地に解く。行程六里半。
温泉宿は一戸二棟。島々清水屋の経営である。登山客でかなりの混雑だ。我ら一行は二階の見晴しで旅装を解き、ともまず一浴を取る。箱根の湯本、塔の沢の湯のように清澄で心地良い。浴後一杯の香煎をすすり、神気頓に爽やかに、しんみりと上高地の雰囲気に浸る。
常念山脈は南に走って来て、六百山の一大赭頭を東に起こし、鉄膚を削ってできた穂高の山脚は西から圧し、峡門は狭く互いに迫るところを、奔流一路が密林を貫いて南に注いでいる。高瀬が鳴る水のほとりが山裾を莢形に開き、南北やや一里、海抜約五千尺の風光流れるような一境地が、すなわち上高地の盆地である。岩切る泉、梢を伝う雫は、そのままの清き色を底に湛え、波に浮かべ、翠山を出て青嶂に入る。さながら、処女地の純潔に梓川は輝いている。対岸一帯は霞沢山の領域だ。流れに臨む叢林の朝霧夕霧に染め出せる梢の緑は、叢雲が湧き立つように、ひたひたと谷を埋め、岨を包み、中腹以上は灰白色の山肌あらわに稜々とした巉岩の連壁を築き、嶺際せめてよじめぐる伏松の色の鮮やかさよ。頂点、八、七二八尺。左には筍を斜めに並べた形の三本槍の尖岩がずらりと空際に突き出て、右は密林の尾根なだらかに南に流れている。目を右岸に転ずると、むらむらと白煙が噴き上がる焼岳の円頂を望むべく緩く裾を曳くところに大正池が光っている。焼岳の大正四年度の噴火にのっとり、砕岩が梓川の下流を塞いでできたのがこの池で、無数の木立が水上に樹幹をぬきんでる状は奇観でもあり、殺風景でもある。田代の池は霞沢山の麓にある。小島小島に姫小松などの枝がさし交えている。なかなかに風情があるが、水が涸れて底が浅いのが口惜しい。川柳が茂った小石原を横切り、梓川を徒渉して行くのだ。すべて上高地の探勝は下駄穿きの気軽さである。
夕日影がきらきらと霞沢の嶺に照り映え、暮色が麓の梢を渡す。倉膳に上る焼き物は、梓川名物の岩魚である。この席は、この夕に味わうべき珍しいごちそうである。
ここは、槍、穂高登山の根拠地である。同宿者はあふれるばかり。健脚鉄の如き連中が登攀の苦、縦走の快、油紙一枚の露営の辛さなんど、昨日の追懐、明日の期待にどの部屋も話し声がにぎわう。我らも今夜からは真個に山の人に成りきった気分のとほんとして、くたくたの五体を床中に横たえ今日一日苦しみ抜いた道中記の補遣をかれこれと語り合ううちに、いつか昏頓の夢路に入る。と、ちくりちくりとわき腹をさす痒病に愕き覚め、後藤君の検診を労すれば、なんのことだ、ダニが皮下に食い込んでいたとは。都人士放れも、ああまた甚しいかな。