二十八日、午前六時出発。大天井の答から出ずる本流を左方に見て、右折して渓谷を上る。一時間許して溪流と別れ、中山(八、二二三尺)越の森林に分け入り、驚くばかりの急坂にかかる。目測五十度以上と見える急斜面。登攀の労苦一通りでない。傾斜が急峻でも、岩畳みなれば、ちょいちょい足がかりがあって、割合いに登り好い所もあるが、枝差交わす叢林の、しっとりとした地表、鎌尾根をも凌ぐ急角度ときてはたまらない。踵は容易に持ち上がらず、爪先はつるりと来る。西公好意の煤竹杖は、ここでも大いにその寸伸びの長所を発揮した。杖も及ばない所は仕方がない。四つん這いだ。先輩も一寸這う真似ほどやるのだ。後輩が這わずにいられるものか。人夫は地表をなめんばかりに屈んでも這わないようだ。肩の荷物で重心が取りやすいのかも知らないとは、察しが良すぎて思いやりが足りない。小柴、細篠、何にでも取りつき、木の根、草の根、としこと踏みこらえ、一歩一歩息の為体、人間が登るというよりは、手足ずきの荷物が、もがいてせり上って行く底の恰好なのが、敢て私一人のみでない事もちろんである。幸いに昨夜安眠ができて、大いに元気を養っておいたればこそ、今朝は樹下で櫓を漕ぐ落伍者も出ないのだ。
登り詰めると、目前に常念岳の姿が顕れからりとした気分になる。一息入れて、途を左に取り、北を指して進む。いよいよ常念山脈縦走の振り出し。これから先きはえんえんたる山梨の尾根伝いとなる。東天井頂点下の西側をめぐり、丁度十二時頃、二俣の小屋に着く。これも型通りの石窟。どうにか雨露は凌げる。付近には雪があり炊事の用には欠かず、露営には都合が良い。ここで昼食をしたため、一時半時分からさらに前進を続け、大天井に登る。標高九千六百四十二尺。常念山系の最高峰である。灰色混じりの赤ちゃけた岩山。山そのものは格別の景趣を持たないが、さて眺望は絶佳だ。目前四周の風光は、取り出でて申すに及ばず、立山連峰を北西の空際に指呼し、南の方はるかに赤石川系の翠黛を望見するなどは拾い物である。北角が最も高く、小さな木造りの祠があり、参謀本部の測量標も立っている。頂点下の万年雪は、孟夏の陽光を浴びて、表面少しく融けつつあり、ほとりほとり瑞露の玉滴をしたたらす。乾き切っている我らは、たまらず雪面へ唇を押しつけて、夢中でちゅうちゅうとやる。涼味満肚。天井人を殺さずなんど、後からまずい洒落も出た。